「褒め上手、褒められ上手」

 
 



世の中 がぎすぎすしているせいか、はたまた人間関係がぎすぎすしているからなのか、素直な感情や心の機微がなかなか伝わりにくい時代になっているような気がします。どうもちょっとしたことでキレやすい人が(大人も子供も)増えているようですし、聞こえて来るのは、楽しい話よりも文句や愚痴や他人の悪口ばかり。


他人の 言動や発言をけなしたり、否定することは簡単です。
「そんなこと言ったってね。」
「そんなんじゃあ、ダメだよ。」
「何、きれいごと言ってんの。」
「あんなことして、バッカじゃないの。」等々…
そのようなことを口にするあなたは、さぞかし大層ご立派な言動、発言をなさっているんでしょうな、と思えばさにあらず。そういうことを簡単に口にする人ほど、はたから見ると、
「バッカじゃないの。」
と思うようなことばかり、平気で言ったりしたりしているようです。皆、他人の良いところはなかなか見えず、見ても見ないフリをして、悪いところやアラばかり探し出しては、それをあげつらうことで安心しているのでしょうか。相手の長所をなかなか見たがらない、ということは、相手の方が自分より優っていることを認めるようで我慢がならないのかも知れません。それが実は、自分に自信がないということの裏返しであるということにも気がつかずに…。



文句や悪口 ばかりでは、言っている本人だって決して気分はよくないはず。まあ、中にはそれを生きがいにしているかのような、言いたい放題の人もいないわけではないですが、少なくとも聞かされる方にしてみればあまりいい気はしません。それが、たとえ、自分には直接関係のないことや、関係のない他人の話であったとしても、です。同じ聞かされるのであれば、誰だって、いい話、楽しい話、ほのぼのとする話、ほっとする話、つまり、ポジティブな話の方が心地よいに決まっています。でも、そういう話はこのところ滅多にないようで、少々悲しくなります。
「ねえ、最近何か楽しい話ない?」
と、人と会った時や電話での話の度に私がつい聞いてしまうのは、そのせいでもあります。大概の場合、
「うーん、特に、ないねぇ。」
といった返事が返って来てしまうのですが…


せめて、少しでも 自分自身が嫌な思いをしないですむように、と、できるだけ他人の悪口やネガティブなことを口にしないようにと心がけてはいるつもりなのですが、もう一歩突っ込んで、なるべく相手の良いところを見よう、気がついたらできるだけ褒めてあげよう、と思うと、これがなかなか難しい。まず、第一に、私自身の「突っ込み気質(?)」が、それを邪魔するらしい。そう、素直に褒めてあげればいいような時でも、ついつい、相手のちょっとしたすきに乗じて、揚げ足をとったり、茶化したりしてからかってしまうのです。勿論、状況に応じて加減はしますよ。場の空気を読むこともせずに言いたい放題、というほど私だって「おバカ」ではないつもりですから。(でも、時々、悪ノリし過ぎて、「しまった」と思うことも…。)次に、相手を「褒める」というのは、ごく自然で、かつ、効果的でなければならないということ。勿論、誰だって褒められれば、(普通は)たとえそれがお世辞半分だったとしても、あまり悪い気はしないもの。でも、だからといって手放しで、褒めちぎったところであまり効果はないようです。かえってしらけるだけ。何万、何百万というシャワーのような褒め言葉よりも、ピリッと効いたスパイスのかけらのような一言の方が「褒め殺し」には絶対的な効力があるはずなのですが、その一言を発せられるほどには、とてもとても私は人間ができていないようです。そして、第三番目、これが一番難しいことかも知れませんが、こちらがいくら誠心誠意相手のことを褒めてみても、なかなかそれが真意として伝わらないということ。それほど、皆さん、普段から「褒められる」という習慣がないのでしょうか。誰かに褒められると、必ずと言っていいほど、お世辞や社交辞令としてしか受け止めてもらえない。勿論、言われればその場はまんざらでもない気分ではあるのでしょうが、それだけ。他人の褒め言葉が、自分の自信につながっていくほどには決して響かない。だから日本の子供たちの多くは皆、自信が持てないまま大人になってしまうのです。大人たちが、決して子供たちを褒めようとしない。見え透いた、上っ面だけのお世辞しか言わない。もっと悪いことに、下手に褒めたら子供はつけあがるとさえ思っているようです。だから、子供を育てるには、悪いところをけなし、叱って、力ずくでも矯めて行くべき、という教育がいまだにまかり通っているのです。テストで70点を取ったって、褒めてもらえない。誰も「70点も取った」とは言ってくれず、「70点しか取れないの」、「もっといい点を取れないといい学校に行かれないよ」と、お尻を叩くだけです。「頑張ったね」の一言もかけてもらえない。つまりは、子供を褒めて伸ばすだけの自信を持った大人たちがいない、ということなのでしょうか。


と、まあ、ここまでは 日本での話です。日本人がいかに誰かを褒めたり、誰かに褒められたり、またそれに対して素直に感謝したりということが苦手な民族か、ということです。恐らく、これも考えようによっては、日本人の謙虚さの裏返しということも言えなくはありません。感情をストレートに出さないという奥ゆかしさということもできるでしょうか。(そう、こういうところでも、私は決してネガティブに一刀両断など決してしないのです。)そこにもって来ると、アメリカ人はそうは行かない。アメリカ人の褒め上手、これは凄まじい限りです。ちょっとしたことでも、こちらがびっくりしたり、気恥ずかしくなったりしてしまうくらい大袈裟に褒めちぎります。例えば、着ているのが久しぶりに箪笥の奥から引っ張り出して来た古着のセーターでも、
「わあ、素敵なセーター。よく似合ってる!」
と、褒めますし、
見知らぬ子供がカフェの隣のテーブルで絵を描いていたりすると、それがたとえわけのわからないような絵であったとしても、覗き込んで
「あーら、上手ねえ。ここのこの色、とっても素敵よ。」
とか、
「あなたのつけてるブローチ、とっても似合ってるよ。」
などと、老若男女関わらず褒めまくります。それも、ごく自然に。Beautifulとか、Greatとか、Wonderful、Marvelousといった言葉を決して出し惜しみなく口にできるのがアメリカ人のいいところ。また、言われた方だって、まんざらでもない様子で、素直に
「ありがとう。」
と笑顔で答え、時にはそこから見知らぬ同士が、あたかも何十年来の旧知の間柄であったかのようになごやかな会話が広がっていったりすることもしばしばです。これが、日本人同士だったらどうでしょう。セーターを褒められたところで、まず「ありがとう」という言葉より先に、「エーッ、そんなことないですよお。これ、古着なんですよ。」と、思わず口をついて出てしまうでしょうし、いきなり隣の変なおばちゃんに声をかけられた子供はびっくりして、そそくさとお絵かきを切り上げてしまうかも知れないし、さりげなくアクセサリーを褒めてくれたのが仮に男性だったとすれば、「この人何か下心でもあるのかしら?」などと、警戒心をむき出しにしてしまうことでしょう。
 

つまるところ、 アメリカ人の褒め上手というのは、自分が相手を褒めることで自分自身も褒められたいという自己表現の現われなのではないかとも思えます。お互いに褒め合うことで、相手の良いところを認める一方で、自分自身も認めてもらいたいという、まあ、いうなれば相互理解のためのコミュニケーションの手段ということなのかも知れません。(もっとも、個人レベルでは、こうしたコミュニケーションのとり方が、我々には到底太刀打ちできないくらい上手いクセに、外交レベルになると掌を返したようにへたくそで不器用になってしまうのが不思議で仕方ないのですが、これはまた違う次元の話になってしまうので、また別な機会に…)



少しでも 相手といい感じのコミュニケーションをとれるように、こうしたアメリカ人の良いところを見習いたいと思い、私自身、相手のちょっとした良い部分を見つけたらなるべく口に出して褒めてあげようと心がけるようにはしているのですが、相手によっては時に大失敗をすることもあります。先日、知人に用事があって会社に電話した時のこと。たまたま電話に出たのが、そこのオフィスに働く年配の日本人男性でした。この人とはその前にも何度か会って二言、三言、挨拶程度の話をしたことがあったのですが、電話で話をしたのは初めてでした。その時の彼の電話での声の感じがとても良かったので、次に会う機会があった時に私はそれを持ち出しました。
「○○さんって、とてもいいお声をしているんですね。実際に会ってお話した時は気がつかなかったのに、この前電話でお話していたら、ああなかなかいい声だなあ、って思っちゃった。」
ところが、これに対する反応がマズかった。
「会ってみたらこんなジジイでがっかりかい?」
「いや、そうじゃなくって、面と向かって喋っている時は、顔が見えるから気がつかなかっただけで。電話だとほら、声だけじゃないですか。顔の見えない分、声の印象って大きいもんですよ。」
「じゃあ、電話の声だけはいい、ってことか。声ばっかり褒められたって、別に嬉しくもなんともねえや。」
「そんなことないでしょ。なかなか張りがあって、若々しい、いいお声ですよ。ホントだってば。」
「要するに、声だけは若々しい、ってことだろう?本当はこんなジジイだけど、って言いたいんだろう?」
ああ言えばこう言う。なんとまあ、屈折したジジイだこと。これ以上何か言おうとすると、こちらの方がますます墓穴を掘ってしまいそうなので、適当に切り上げて来ましたが、ここまで、すねた態度で出られるとこちらの方がしらけて来ます。
「あーあ、声なんか褒めてやるんじゃなかった。照れ隠しにしたって、もう少し別な言い方があるんじゃないの?ヒトがせっかく喜ばせてやろうとしているというのに、逆に喧嘩売ろうっていうのかい、このクソジジイ!人間歳とってから可愛げがなくなると、そのうち誰からも相手にされなくなるよ!」
と、口にこそ出さねど、心の中で目一杯毒ついてやりましたが、どうにも後味の悪い気分でした。いや、本当の話、他人を褒めるのって難しい。
 

その一方で、 やたらと褒められ上手な人もいます。他愛のないようなことでも、褒められると心の底から嬉しそうな満面の笑みを浮かべて素直に大喜びしてしまうような人っているものです。特にアメリカ人や、日本人でもアメリカ生活の長い人に多いようです。自分が誰かに認められている、というそれだけで、もう嬉しくて仕方がないのでしょう。
「あら、その口紅の色、きれい。」
「ホント?ありがとう。これね、この間買ったばかりで、これまであんまりつけたことのない色なんだけど、このジャケットの色と合ってると思わない?ね、いいでしょう?」
などと、あまりに無防備で嬉しそうな顔で言われると、「何と単細胞」とか、「あんたバカじゃないの?」なんて思うよりも前に、ついついこちらもつられて、ますますおだててやりたくなるような気にさせられる、実に得な性分です。でも、こういう人を相手にしていると、こちらの方だって決して悪い気はしないですし、楽しい気分にさせられるのは確かです。これは、子供であろうと、大人であろうと、同じことだと思うのです。
 
 


褒め上手 になるのにも、テクニックやコツがあるのでしょう。やみくもに、何でも褒めればいい、ってものでもなさそうです。でも、お世辞でもいいから、相手の良いところを見つけたらできるだけそれを素直に口に出す、ということを心がけるうちに、だんだんと自分も相手も本当にその気になって来るかもしれません。なにしろ、豚ですらおだてれば木にも登るらしいですから、我々も皆でおだて合っていれば、いいじゃないですか。少なくとも、けなしてばかりいたって、悪くなることはあっても、決して良くなることはないのですから。誰だって、自分を認めてもらえば悪い気はしないでしょう。(だから、私は今でも、上記のクソジジイだって、心のどこかではまんざら悪い気はしていないんじゃないか、とは思っているのですよ。)それから、もっと大切なこと。褒められたら、それがたとえお世辞とわかっていても、とりあえずは素直に「ありがとう」と答えることにしたいものです。褒められ上手な人はきっと、他人を褒めるのも上手なはず。(なんと、見え透いた)とか、(どうせ、心にもないことを)なんて考えないで、まずは素直に喜ぶ、というところから始めたいと思います。


というわけで、 私は「褒め上手」な人になりたいと思います。だから、お願いです。皆さんも、私をどんどん褒めて下さい!?
 

  2005年4月4日

あいばいくこ   


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