今さらながら
「日本語」について

 
ニューヨーク に20年も住んでいると、日本における言葉の流行や変遷にびっくりさせられることがよくあります。テクノロジーが発達してくれたお陰で、確かに日本の情報は瞬時にして入ってきますし、今、日本で何が流行っており、日本の人々がどういったことを考えているのかもよくわかります。また、ニューヨークという土地柄もあるでしょう、日本からごくごく気軽に遊びに来る若い人達が当たり前のように日本の流行を全身にまとって街中を闊歩しています。もう随分前のことになりますが、若者の間でいわゆる「茶髪」(ハハハ、MicrosoftのWordでは「ちゃぱつ」の変換ができない!)が流行り始めた頃は、「何とも嘆かわしい!」と大人達は眉をひそめていたくせに、ここまで「茶髪」が市民権を得てしまい、見た目にも抵抗感がなくなってしまうと、かつてさんざんうるさいことを言っていた方もいつの間にか「白髪隠し」(ウーム、「しらが」はちゃんと変換できるぞ!)に名を借りて赤や茶色に染め始めたりします。(かく言う自分もその一人?トホホ…)これほど、当初は違和感に満ち溢れて大騒ぎしていたようなことでも、そのうち慣れてしまえば、おかしいとも何とも思わなくなってしまうものなのでしょうか。
 

今日は別に 白髪のことを話題にしたいわけではなく、いわゆる「日本語の乱れ」という問題を俎上に乗せたいと思っているのです。なーんてことを言うと、「アイバも遂に口うるさいことばかり言うオバサンになった。」などと笑う人もいるかも知れませんね。笑いたければどうぞ、ご勝手に。アイバの口うるさいのと、口の悪いのは生まれつきです!それに、私が「これって変な日本語!」とやたらとわめくのは、実は昨日今日始まったことではなく、以前にも、「ら」抜き言葉や、コンビニやファストフード店などの店員の言葉使いについては、ダンナ相手や仲間内でさんざん「おかしい、おかしい!」とわめき散らして来ました。しかし、最近では、「食べれる」(ウワー、Wordではこれ、既に「ら抜き」として認知されている!)とか「1000円からお預かりします」とか「フライドポテトの方、いかがですか?」などと言われても、確かにいまだに気持ちが悪いし、かなり抵抗はありますが、すっかり諦めています。いまさら、「浦島花子」みたいなオバサンひとりがわめいたところで、もうすっかりこれらの言い方は定着してしまった感があるからです。(オバサンと言えば、ある時期一世を風靡した「オバタリアン」なる言葉は、最近では殆ど「死語」と化してしまったのでしょうか?オバタリアンと称されていた人種は今、どうなってしまったのでしょう?それにしても日本における流行語のサイクルは短過ぎやしませんか?おっと、イカン、イカン。アイバの話はこのようにしょっちゅう脱線してしまう…)。
 

このところ、 私が気にし始めたのがいわゆる「てにをは」の問題、それも主語と目的語の混同という、少々厄介な乱れなのです。最近、若い子ばかりでなく、結構年配の層にもよく使われているようなのが、「コンビニで肉まんが売っていた」とか、「○○のドキュメンタリーがテレビでやっている」というような表現です。よく考えてみれば「肉まん」は自分が売っているわけではなく、売られているのです。ドキュメンタリーだって、自分で勝手にテレビに映っているわけではないでしょう。この場合、あくまでも「肉まんが売られている」か「肉まんを売っている」、「ドキュメンタリー(番組)をやっている」でなくては文法的に意味をなさないはずで、明らかに間違った用法です。「肉まん」や「ドキュメンタリー」はここではあくまでも目的語であり主語ではありません。ただ、話の成り行き上、「肉まん」や「ドキュメンタリー」を強調しようとするあまり、ついこれらが主語のような錯覚に陥ってしまい、その結果、後に続く助詞が「が」となってしまうのでしょうか。まあ、その気持ちは判らないでもありません。でも、やはり違うものはちがうのですよ、残念ながら。ところが、平気でこういう言い方をしている若い子に「それはおかしいのではないか」と指摘すると返って来た言葉が「どうして?どこが?皆、そう言ってますヨ、肉まんが売ってるって。ウチのお母さんだって」と来た。これを聞いてアイバは混乱してしまったのです。もしかして、私が20年ニューヨークに暮らしているうちに、知らないうちに日本語の文法が変わってしまったのではないか、と。一時は自信がなくなって、ニューヨークに住んでいる何人かの日本人に聞いてみたところ、皆一様に「それはおかしい」といってくれて少々安心したのですが(少なくとも、ニューヨークではまだ「正しい日本語」が守られているようです)それでもアイバとしては一抹の不安を拭い去ることができません。というのも、これまで、何となく誰もが「おかしいかも知れない」と思っていたちょっとした間違いが、いつの間にか、なし崩しで「食べれる」や「1000円からお預かり」のように、主流にのし上がって市民権を得てしまっているからです。時代によって言葉は変遷して行くとはいえ、やはり、明らかに間違った使い方をされている言葉がいつの間にか「本当は違うけれど、慣用的には使われる」という注釈つきから、次第に「以前はこのように使われた」という過去の言葉へと変わってしまうのを見るのは、やはり少々辛いです。


私の知り合い で、日本語のとても上手なアメリカ人がいます。彼は、長いこと日本で仕事をしていた経験があり、言葉だけではなく、日本の文化や政治、社会のことにまで大変造詣の深い人なのですが(なにしろ、自宅には茶室を持ち、毎日「日本経済新聞」を愛読しているというくらいですから)、彼と話をしていると、私はいつも彼の口にするあまりに正統的かつ美しい日本語に圧倒され、自分が日本人であることが時々恥ずかしくなってしまいます。例えば、他人に何か依頼する時は必ず「恐れ入りますが」とか「申し訳ないのですが」といった前置きをつけ、自己紹介をする時は「○○と申します」という表現が当たり前に出て来るのです。当然、敬語の使い分けも自然にやってのけます。いつか、ある会合で会費を徴収する際に、彼が「むき出しのままで失礼ですが…」と言ってお札を両手に捧げて差し出した時には私は思わず返す言葉を失いました。彼に言わせれば、最初に習った日本語の先生がとてもうるさくて厳しい人で、彼の日本語はこの先生から叩き込まれたものだそうですが、それにしても、ここまで徹底して美しい日本語を身に付けたアメリカ人を私は他に知りません。彼を見ていると、「言葉とはコミュニケーションの道具ではなく、文化そのものである」ということをあらためて思い知らされます。おそらく、彼の前でうっかり「肉まんが売ってましてね」なんて言おうものなら「それは日本語としておかしいですね」と、たちどころに注意されてしまいそうです。
 

私達は日本人 だから日本語を喋っていて当たり前、と思っているのは、実は大きな間違いであり、驕りであるのかも知れません。いくら、書き言葉と話し言葉は違うとはいえ、もしかして、私達が普段日本語だと思って何気なく喋っている言葉は、きちんとした日本語を習っている外国人には全く通じないようないい加減な言葉であるという可能性もあります。どんなにくだけた言葉や流行語を喋っていても、それはあくまでも本来の正しい日本語を知った上のことでなければならないでしょう。やはり正しい日本語、美しい日本語は守っていきたい、と思います。今は日本には住んでいないけれど、私はれっきとした「日本人」なのだから、「日本語」という美しい言葉に誇りを持ちたいと思うのです。
 

もしも 皆さんの中で、「○○が売っていた」「(番組)がやっていた」といった表現をおかしいと思わない方がいらしたら、(勿論、おかしいゾと思う方も!)是非お返事下さい。また、他にも「この言い方は変だ」という事例がありましたら、教えて下さい。

  2003年3月7日

アイバイクコ   


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