例年通り当然、お盆の墓参りをした。8月13日は迎え盆、16日は送り盆―と。お盆は祖先の霊を供養する行事、祖先の霊が子孫の元へ帰ると、何となく認識している。仏壇の周りはホオズキやビャクダンの枝葉などで飾り、行燈を照らした。年々、線香をあげる回数が増加傾向にある。
第2次世界大戦終戦記念日はお盆期間中の15日であり、特に今年は戦後70年の節目の年でもある。なぜか今回はお盆が終了しても先祖の事を想い、今後の我が家の事もじっくり考えたりして余韻が残った。
市や県の歴史書の中には「名主、糸商、地主、多額納税者、村長、鉄道・銀行・ガス事業への参画―」等々、代々半兵衛の名前が記録されている。敗戦後の財産税(国税)の納税や農地改革で資産の大半を失った父・義雄も市助役など公職を務め、公共の福祉のため貢献した。
我が家の言わば全盛期に整備・建造された墓と現在の住宅(記念館)。いずれも当分、頑丈で壊れそうにない。しかし、これをありがたいと思う反面、正直なところ、私の能力では重荷と感じる事もしばしばだった。
数年前、(株)電通の局長、(株)電通総研の役員を務めた兄から「戦後、旧家の大半が姿を消してきた中、松村のプレゼンテーションを高め、良くぞここまで生家を残してくれた。ありがとう。これからは夫婦で楽しむ余生を送れー」と、激励を受けた事がある。嬉しかった。涙がこぼれ落ちた。社会をワイドに見てきた兄ならではの含蓄のある言葉だった。
振り返ると父や母は、息子たちすべてに後継ぎを強制しなかった。
「時代は変わった。自分の好きな道へ。東京にいようが外国にいようが松村に変わりはない。誰も帰って来なかったら、山林や自宅の整理、縮小を行う」と、父は口にしていた。兄たちは早大教授や電通役員へ―。実は私も大学卒業後の進路はスポーツ卓球の関係から当時、全日本実業団の雄だったシチズン時計か旺文社へと向かっていた。もちろん私にも父や母は後継ぎを強制しなかった。この件で兄たちと多少のやり取りはしたが結局、自身の判断で足利へ戻ったのである。これに父や母は拒む事もしなかった。多分「自分らしい主体的人生を歩め」「菊根分け あとは自分の土で咲け」が両親の教えだったかもしれない。
何の能力も持たずに何とか歩んできた私、69年。不器用にも選んだ道をなおひたすら歩もうとしている自身が正しいか誤っているか、分からない。優しくて気丈な父と母は今や遠く無言だ。私がせめて将来、「有終の美」を飾る事が両親や先祖への感謝の証と肝に銘じ、さらにゆっくり深く生きて行きたいと思っている。
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