卓球レポート(1968年11月号)
過日のリオ五輪以降、スポーツ卓球への国民人気が急上昇していることから、かつての卓球人として昔を回顧しつつ一文にしてみた。
リオでは男子団体で銀、女子団体で銅、男子シングルスで水谷隼が銅と、1988年のソウル五輪の競技種目に初めて卓球が加わって以来、日本は過去最多の3個のメダルを獲得した。女子エースの福原愛は、私の母校(早大)の後輩であり、その面から特に親近感を覚え、手に汗を握り声援を送ったがまずまず、男子エースの水谷も「女子に負けまい」として世界ランキング1位の馬龍(中国)と互角の戦いで健闘した姿は頼もしく、また、女子15歳の伊藤美誠の年齢を感じさせない活躍も東京五輪へ希望をもたらし、これら多くの人々に感動を与えたことだろう。男女とも世界の頂点に君臨する中国の打倒も近づいているように思えてきた。
卓球は一般的によく「卓球とピンポン」に区別して表現される。「スポーツ卓球」といわゆる「温泉卓球・ピンポン」である。スポーツ科学者が一流のサッカー選手と卓球選手の持久力や瞬発力等を比較したデータにより、双方に同等の体力的負荷があると公表したことがあるが、卓球はスポーツ界では見た目以上にハードなスポーツとして認識されている。用具の変遷、また、以前の1ゲーム21点先取から11点先取に変わり、より集中力が求められるとともにユニホームはカラフルになり、華麗でダイナミックなスポーツとして進化してきた。さらにメディアワークの向上も相まって、一流選手の技術・体力・精神力の様(さま)をリアルに感じ取れるようになったことも、卓球の国民人気が高まる所以(ゆえん)だと思っている。屋外では「ローンテニス」(硬式庭球)、屋内では「テーブルテニス」(卓球)とした、この発祥の国はイギリスである。
今から47年前、1968年11月号の卓球レポート表紙の一角に私が載っている。秋季関東学生リーグ戦の専大対早大の3番ダブルス、伊藤・河野組と河原・松村組(1番手前が私)の命運をかけた戦いだった。当時の日本卓球界は大学生が主流を成し、大学を制する者が日本を制し、また、世界を制していたが、この時の対戦相手の伊藤・河野選手とも日本及び世界チャンピオンで、今では五輪の金メダリストとも言える。この試合は1―1の末1本を争うシーソーゲームとなり、卓球界では絶賛の評価を受けたが、1本を先行できなかった自身をパートナーとともに非常に悔やんだことを記憶している。負けは負け、私は勝負の厳しさを再三味わった。
大阪府立体育館での全日本大学対抗準決勝の対日大戦は、当時の世界選手権方式(3人対3人の総あたり9試合、5点先取勝)で行われて4―4の激闘となり、最終の私が辛うじて逆転勝利して決勝戦へ進めたこと、シングルスでは東京選手権(全日本オープン)準々決勝で世界チャンピオン・伊藤選手とのシーソーゲーム、また、全日本選手権には東京都代表になって出場、中央大主将とのランキング決定戦等が特に走馬灯のようによみがえる。
「マツは(本格的選手として)スタートが遅かったから3年間だけ東京に残れ」と、日本卓球協会の要職を務めていた先輩のアドバイスもあったが大学卒業後、諸般の事情で足利へ戻った。仮に、就職が内定していたシチズン時計か旺文社に勤め、全日本実業団トップチームの環境で卓球を続けていたとしたら人生、どうなっていたかと時々思い起こすこともある。
1968年全日本学生チャンピオン(増山トク子)
このように“不発”に終わった私は、高校・大学時代に女子卓球の日本代表選手として国際試合で活躍した今の妻と結婚した。生年月日が夫婦とも同年同月同日(1946年11月1日)という極めてめずらしいケースである。妻は私と結婚していなかったなら、愛ちゃん(福原)のように国民的アイドルになっていたかもしれない(笑)。今はゴルフとローンテニスを楽しんでいるが多分、心身を懸命に打ち込んだスポーツは、単なる趣味にはできないのだろう。
残念にも10年以上前に他界してしまった友人・元世界卓球チャンピオン長谷川信彦は、「中・高校時代は基本練習に明け暮れた。これは卓球を志してすぐに基本が大事と痛感したからだ。目標とする基本技術は、最高レベルを意識したものだった。模倣に始まり、創意工夫によって自分の技術を創り上げることに成功した」―と。彼は18歳(愛工大1年生)で史上最年少の日本チャンピオン、20歳で世界チャンピオンになった。ある種の、幾多の、苦しみを乗り越えながら精進を重ね、結果として栄光を勝ち取るのが真のスポーツだと、私は思っている。名実ともに世界王座に位置した、あの頃の日本のように再び輝いてほしいと念じて止まない。
リオ五輪での日本は、卓球に限らず多くの競技種目において若手選手の台頭があり、2020年東京五輪に向け私ども国民に明るい希望を抱かせてくれた。私は白髪が増加する一方ではあるが、いまだ入院経験がないことを自信として4年後、8年後、12年後の五輪の観戦をぜひ果たしたいと、人生晩期に向けた願望の一つにしているところである。日本アスリート、頑張れ!
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