2014年5月

足利市議は過去

えびね 「Yさんがいなくなったので今度は大丈夫。市議会に復帰して欲しい」と、市民の方々から異口同音に求められる。「そうだ、早いものであれから3年が経ち、来年4月は統一地方選挙だ」-と。
 私は3期12年間にわたり市議を務めさせていただいた。それ以前も市職員として公共の仕事に携わっていたので、市長側から転身しての奉職だった。自治制度上、市長と市議会は対峙の関係にあるが、双方とも大義は「我がまちのため」と共通しており、私は政策提案型の市議になる事を公約の1つにし、実践した。選挙では、家族・親戚・友人はもとより多くの方々のお世話になった。しかし、4度目の市議選をしくじった事は、自己責任だと思っている。
 正直言って私は、公共の仕事は大好きだったが、選挙は大嫌いだった。当然、選挙を越えなければ市政に参画する事はできないのだーが。しかも市議選の特徴は、候補者の①所属地区が大きい(有権者が多い)②市内に親戚が多い③市政(市役所)と利害関係のある会社・団体の支援が多い、が一般的に有利とされているので、これらにも該当せず、真の支持者にはご迷惑をお掛けしてしまった。最も小さな選挙特有の難しさも至る所で味わった。有権者の心中は、多種多様でそれぞれの思惑が絡んで複雑、また、心の豊かな人もいれば貧しい人もいた。
 前回の市議選を振り返ると、私と所属地区が同じで、この特徴を良く知るYさんの運転手(秘書)が立候補するとともに、他地区に住んでいながらなぜか、この事務所を私の自宅からわずか30mほどの所に構えた。選挙の好きな歯医者と、いつもご自身で口にしていたYさんだったが、良識を疑いつつもさすがに、と思った。確か2月だったか、某県議から「厳しいよ、でも、あんたに土下座までして戦え、とは言えない」―と。私はYさんに新日赤の薬局施設設置等、政策・施策面では勝ったが、選挙は僅差で敗れた。しかし、地方議員であるがゆえに12年間、政党政治よりも「地方自治の理念」を重視した言動を貫いた事に悔いはない。その後、間もなくYさんはなぜか、急逝してしまった。
 3人の市長との論戦、また、限られた、質の高い国議・県議・市議との論議が懐かしく、走馬灯のように蘇るが、私は「バッジなんか付けなくても、社会に奉仕する事はいくらでもある」と、遠く先人から受けたアドバイスにこの頃同感、他にまだ、やるべき事がたくさんあるように想えてならない。
 私の市議としての活動・生活は、“人生の1ぺージ”として過去の事にしたが、良き思い出も多く、これは永遠に心に残していきたいと思っている。

赤木明登展、クレイアート展

赤木明登展 4月は表題の2つのイベントが記念館で開かれた。準備日程を含めると4月15日(火)~27日(日)の連続13日間に及んだ。どちらも魅力的作品+無料公開であり、入館者数は通常をはるかに超える賑わいだった。会場担当の記念館としても、夫婦共々“うれしい悲鳴”を上げた。
 赤木さんは奥能登の輪島を拠点に、日常の生活道具として「ぬりもの」の世界を切り開いてきた人。「漆塗師物語(文藝春秋社)」、「美しいもの」「美しいこと」「名前のない道」(いずれも新潮社)等々、多数の著書もあり、テレビ出演や講演も行っている。作って良し、書いて良し、話しても良しーだ。銘酒にも強い。私も漆塗師物語を読んだが、彼の生き様が鮮明に解る。日本の伝統工芸を斬新なタッチで継承する作家で、ドイツ国立美術館「日本の現代塗り物12人展」を構成した1人。各方面から将来をさらに期待されている“輪島職人”である。
クレイアート展 一方、クレイアートを愛好する「野あそびの会」は、足利地域を中心に20名ほどで活動しており、リーダーの川島照代さんを筆頭にチームワークが良く、作品の説明やら湯茶の接待、また、多くの来場者との懇談等、きめ細かな“もてなしの心”が受けていたようだ。記念館には毎日、明るい笑い声が堪え間なく続いていた。
 建築・生活文化上の観点から、記念館として公開・活用して17年余。日本に残る木造建築物の活用度が最近、国内外の方々の間に高まってきている事は、誠に喜ばしい限りである。
 昨年来、記念館でのイベント開催も増加傾向にあるが、特に春や秋の時季はお勧めであり、古民家の一層の活用とともに足利の文化振興のため、今後も多くの方々にご利用いただければ幸いである。
 当HPのイベントスペースもぜひ、ご参照いただきたい。