足利市議は過去

えびね 「Yさんがいなくなったので今度は大丈夫。市議会に復帰して欲しい」と、市民の方々から異口同音に求められる。「そうだ、早いものであれから3年が経ち、来年4月は統一地方選挙だ」-と。
 私は3期12年間にわたり市議を務めさせていただいた。それ以前も市職員として公共の仕事に携わっていたので、市長側から転身しての奉職だった。自治制度上、市長と市議会は対峙の関係にあるが、双方とも大義は「我がまちのため」と共通しており、私は政策提案型の市議になる事を公約の1つにし、実践した。選挙では、家族・親戚・友人はもとより多くの方々のお世話になった。しかし、4度目の市議選をしくじった事は、自己責任だと思っている。
 正直言って私は、公共の仕事は大好きだったが、選挙は大嫌いだった。当然、選挙を越えなければ市政に参画する事はできないのだーが。しかも市議選の特徴は、候補者の①所属地区が大きい(有権者が多い)②市内に親戚が多い③市政(市役所)と利害関係のある会社・団体の支援が多い、が一般的に有利とされているので、これらにも該当せず、真の支持者にはご迷惑をお掛けしてしまった。最も小さな選挙特有の難しさも至る所で味わった。有権者の心中は、多種多様でそれぞれの思惑が絡んで複雑、また、心の豊かな人もいれば貧しい人もいた。
 前回の市議選を振り返ると、私と所属地区が同じで、この特徴を良く知るYさんの運転手(秘書)が立候補するとともに、他地区に住んでいながらなぜか、この事務所を私の自宅からわずか30mほどの所に構えた。選挙の好きな歯医者と、いつもご自身で口にしていたYさんだったが、良識を疑いつつもさすがに、と思った。確か2月だったか、某県議から「厳しいよ、でも、あんたに土下座までして戦え、とは言えない」―と。私はYさんに新日赤の薬局施設設置等、政策・施策面では勝ったが、選挙は僅差で敗れた。しかし、地方議員であるがゆえに12年間、政党政治よりも「地方自治の理念」を重視した言動を貫いた事に悔いはない。その後、間もなくYさんはなぜか、急逝してしまった。
 3人の市長との論戦、また、限られた、質の高い国議・県議・市議との論議が懐かしく、走馬灯のように蘇るが、私は「バッジなんか付けなくても、社会に奉仕する事はいくらでもある」と、遠く先人から受けたアドバイスにこの頃同感、他にまだ、やるべき事がたくさんあるように想えてならない。
 私の市議としての活動・生活は、“人生の1ぺージ”として過去の事にしたが、良き思い出も多く、これは永遠に心に残していきたいと思っている。