横田千之助と田中正造

紅葉した山モミジ 下野新聞社が刊行した、とちぎ20世紀下巻・人物編の最初は、足利出身の「横田千之助」であり、最後は佐野出身の「田中正造」である。実に的を得た扱いになっている。
 横田は弁護士から衆議院議員となって中央政界で活躍。立憲政友会幹事長、内閣法制局長官、司法大臣等を務めた。原敬や高橋是清を支え、大正デモクラシーを牽引した中心人物の1人。生きていれば内閣総理大臣になったか、暗殺されていた、と言われた。56歳の若さで流感をこじらせて急逝してしまった。大正期の激動の政治は、横田を抜きには語れない。8年ほど前、横田を卒業論文に取り上げた大学生がいたが、最近も複数の大学生が横田の研究のため来館している。
 正造は名家に生まれ、下野新聞の前身となる「栃木新聞」を発刊して編集長に就任。県議会議員を10年間務めた後、衆議院議員となった。帝国議会で「足尾銅山鉱毒の偽につき質問書」を提出し、被害民の救済運動を本格化させた。明治天皇に直訴状を提出しようとして警官に取り押さえられた。その後も、正造の環境問題へのすさまじい抵抗は続いたのである。71歳で生涯を閉じたが、わずかな所持品の中に日記や聖書、渡良瀬川の石ころ数個があった。
 今年は正造没後100年。佐野を中心にこの顕彰行事は盛り上がりを見せている。某イギリス人は、「(正造は)私財を投じ、住民とともに権力と戦い、また、反戦も訴えた。そんな政治家は、昔も今も母国にはいないと思う」(下野新聞報道から)―と。
 この2人の共通点として、①政治に命懸けで取り組んだ事、②私財を国家・国民のために使用した事、が挙げられる。偉人としての1つの所以(ゆえん)かもしれない。