中村修二氏の過去の訴訟に思う

signal_blue ノーベル物理学賞を受賞した中村修二氏が青色発光ダイオード(LED)の特許権の確認などを求め、開発時に在籍していた日亜化学工業に起こした訴訟は「発明の対価」に対する考え方で多くの話題を呼んだ。最終的に約8億4千万円を会社(日亜)が中村氏に支払う事で和解が成立し決着したが、「無理やり和解に追い込まれた。日本の司法は腐っている」と、当人の本音は不満足だったようだ。現在の中村氏は「米国籍」となっている。
 例えばプロのスポーツ界や芸能界は、競争も激しいが個人能力に対する評価の色が強い。ゴルフ・野球・サッカー等の選手、歌舞伎・映画俳優、歌手、テレビタレント、美術・工芸家等、一芸に秀でた人への報酬額は桁違いに高い。また、医師・教授・教員等、有資格者も社会から一定の評価を受けている。我が国の課題は、企業等組織における個人の貢献度の扱い、評価の在り方だったのではないか。バブル経済崩壊後、ジワジワと能力主義へと変化しているようではある―が。
 この裁判で着目された点は「企業能力」か「個人能力」かの観点である。裁判で日亜が「個人の対価はゼロ」を主張し続けたが、結果は中村氏が主張した「個人能力」に一定の評価が下された、と見ていい。ここが重要なのだ。私は個人の技術・見識・人脈等が企業等組織に利益をもたらした事が客観的に認められるものならば、この個人を高く評価すべきと思ってきた。従来、欧米は個人能力を重視し、日本は集団能力を重視していた。それぞれ一長一短ではあるが、我が国の企業等組織はなかなか個人を認める風土が乏しかった。女性だから、若いから、勤続年数が短いから、集合力の成果等々を理由に、個人能力よりも集団能力を評価基準の中心に据えてきたのである。1人のスターをつくるよりチーム力で勝負すべき―と、大方の企業等組織はこうだった。これにより勤続年数=貢献度、年功序列型人事・報酬制度の採用―と。しかし、グローバル経済社会の到来もあってか、少なくとも個人を軽視しないようにはなった。
 私は決して集団能力を否定する者ではないがこの“中村事件”は、企業等組織における個人能力を的確に評価すべき事を示唆したものと認識している。我が国の研究者等の1つの“道しるべ”として真摯に捉えている。勇断を持って訴訟に及んだであろう中村氏に拍手、喝采を送る者の1人である。